#22 n=1の贈与経済とストア的アパテイア――代替可能性の欠如がもたらす「本来的親密性のアンビバレンス」

哲学コラム連載『存在論的コンフリクトの発散』システムと個人はどう折り合いをつけるのか〜

n=1の贈与

これはたった一人の親しい人や大切な人に対しての等価交換から外れた無償の贈与である。見返りを求めずに相手に与えることは等価交換で成り立っている経済への根本からのアンチテーゼとなり、それが伝播していけばやがて大きな経済圏となる。

それがn=1の経済圏である。4要素の否定とn=1の贈与によって僕たちは純粋な本来的創造が可能になる。これらはシステムに感知されない営みとなり、幸福の渦を作っていく。私が飛翔の揚力で述べた親しい人への値段のつかない無償の贈与もその人一人に向けたn=1の贈与であり、その人に宛てた曲はいまだに二人の間でしか聴かれない。

そしてその贈与はアドラーの語る他者貢献の理論の系譜を受け継ぎ、贈与というのは物質的な贈与だけではない、傷ついた相手を笑わせる言葉、相手の喜びを一緒に喜ぶ笑顔、そしてそこにいることだけでさえも貢献になる。

主人間の脆弱性

主人間ですらも言って仕舞えばシステムへの隷属から愛への隷属に対象を変えたにすぎない。そうなると愛の対象の一挙手一投足に左右されることになる。主人間という名前の割に愛に対しては隷属的なのがお笑い種だ。

そもそも私たちはその人以外に誰もいないという交換不可能な心理状態に置かれるとその人に依存する傾向がある。恋愛にはその人以外にも代えはいくらでもいるという余裕がないと相手に依存し、過剰に距離を縮めようとして相手に油断をさせ、相手はこいつはいつでも自分のことしか見ていないという気持ちになって大切にしなくなる。

相手も他に相手を選べたのに自分を選んだという実感があり、それが両者にないと真の意味で対等な関係にならないのだ。それが無理ならお互いがお互いしかいないという状況で共依存する道しかない。ストア派の教えのようにコントロールできないもので大切なものは好ましいが無関心でいるくらいがちょうどいい。

私のいう本来的想像はそうした脆弱性も包含しているわけだ。n=1の贈与は本質的には相手への期待から成り立っている。贈与をしたものが相手に何も期待しないなどは不可能な話だ。そもそもこの世界に純粋な贈与など存在するのだろうか。ほとんどは等価交換でできている。そして相手に与えたから自分も与えられるという期待に縛られて、それが裏切られると憤怒する。身勝手な話だ。そこに主人間の4要素へのアンチテーゼともう一つ、n=1の贈与の脆弱性だ。

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