-ポピュリズムの構造への溶解と再生産され続けるシミュラークル-
問題提起として現代の音楽において言葉、厳密に言えばソシュールの言語学で言うところのシニフィアンとシニフィエが遊離し始めており、言語の存在意義の一つである世界を切り分ける役割や他者にメッセージを伝える役割から外れて、純粋に人々の鼓膜に快楽を届けるポピュリズムへと言葉が安売りされて陳腐化しつつある。音楽における言葉が実態のない記号と成り果て、言語の墓場となるか、それとも知覚の多層性に貢献し共感覚的に言語の可能性を拡張する図式となるか、現代日本のポップカルチャーにメスを入れて行く末を分析するのが本レポートの試みである。
まず分析の方法だが、歌詞の分析という主観的な視点を取り入れる以上、どうしても定性的なデータに頼り切りになることに関しては先に断っておきたい。現代のJ-popは音楽を作る上で伴奏やメロディが先に来て、歌詞が二の次になってる場合が多いと聞いてて感じた。これはその作曲家が公言しているわけではないため、あくまでも憶測の範疇を過ぎないのだが、2年以上作曲をやってきた私の所感としては歌詞の言葉にそこまでの意味が込められてないように感じたのは、アイドルのようなビジュアルやダンス重視のアーティストにより顕著である。例えばブルーノマーズとブラックピンクのメンバーのコラボ曲「APT」では”アパツ”という言葉が曲の中で数えきれないほど繰り返される曲となっている。アパツは韓国の飲み会ゲームであるアパートゲームに由来しており、名前の通り韓国語でアパートを指すのだが、韓国人でアパツと言われればアパートを連想する人は多いだろうが、世界中でヒットしたこの曲でアパツと聞いてアパートを連想する人はいるのだろうか。これこそシニフィアンとシニフィエの遊離であり、ほとんどの人がアパツという単語を連続で聞いた結果、ゲシュタルト崩壊的に、またはアパツの意味を知らずに踊っているところが想像できる。
現代は大量生産大量消費社会の合理的かつ生産的なコモディティとしての音楽と言語である。TikTokやyoutube shortsのようなショート動画文化が世界で普及した現代では複雑なシニフィエはノイズとなる。響きやリズムを重視してシニフィアン先行の音楽こそが忙しい現代人の心を掴み、すぐさま中毒にしてしまうのである。
今や言語は文学のような芸術を織りなす高尚な王座から引き摺り下ろされ、今やコンビニで買えると言っても過言ではないようなコモディティと成り果て、陳腐化した。しかしそれは言うなれば言語を操るのは貴族ではなく民衆もできることとなったともいえよう。
シニフィアンとシニフィエの遊離もただのリズムに成り果てた言葉の死骸がゾンビのように踊っているとも言えるが、むしろ言葉の文字や音と、それにまつわる概念が遊離することで、言葉をより表面を撫でるだけでなくその言葉の可能性を再定義し、意味の多層性へと拡張するパーツとしての音との連帯により、言葉はもはやソシュールの言った世界を切り分ける分節の道具としての本質から離陸し、意味に囚われず可能性のスペースができた言葉に僕たちが命を吹き込むという実存としての言葉が生まれたのではないだろうか。
大量生産大量消費社会、ウォーホルはそれを揶揄するかのようにキャンベルのスープ缶をシルクスクリーンで印刷して現代アートに昇華した。そんな人が、現代の音楽を聴いたらどう思うのだろうか。再生産される記号を盲目的に追いかけるポピュリズムの毒に侵された人が増えたと悲観するかもしれないが、私としては言葉の可能性はもはや意味の奴隷労働から解放されて、自由に空を羽ばたけるようになった自由な存在として日本のポップカルチャーを鳥瞰している。
言葉は死んだ。しかし言葉が死んで抜け殻となった言葉は何もないから何者にでもなれる。意味から解放された言葉たちはミネルヴァのフクロウのように、意味と崇拝される高尚な記号としての役割から離陸して黄昏に向かう。
参考文献
フェルディナン・ド・ソシュール『一般言語学講義』
G.W.F. ヘーゲル『精神現象学』
ジャン・ボードリヤール『消費社会の神話と構造』
ジョルジュ・バタイユ『呪われた部分』


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