#19「仕事終わりにスマホを見るだけの人」の危険な末路――会社に生活を人質に取られないための生存戦略

哲学コラム連載『存在論的コンフリクトの発散』システムと個人はどう折り合いをつけるのか〜

人質にされた貨幣

そして社会に出て働くようになってからは没人間製造ラインの最終ラインとなる会社が待っている。そもそも学校は会社の縮図であり、忠実な縮小模型なのである。ここで身体の時間拘束、精神の侵襲による記号への盲目的な意思を受けつけることに成功したら晴れて交換可能で計量可能な労働力の完成である。ここではほとんどの人が反乱を起こすことができない。

なぜなら明日の生活が人質に取られていて、その身代金を稼ぐために働いているからだ。そしてそこで擦り切れた人間は帰ってからスマホでSNSやショート動画を消費するだけの人形になる。労働で蓄積した熱を、帰って冷却して、次の日にまた労働をするという繰り返しになる。

バタイユの蕩尽の本質は目的も意味もなしに太陽から与えられたエネルギーとしての時間や金を無意味に発散して太陽に返すことで一般経済の至高者になれるというものだが、勘違いされやすいのが、惰性でSNSを見るのは蕩尽ではない。

明日の活力を貯めるためのメンテナンスとしての保存の論理が働いており、蕩尽の性質として自ら能動的に行わないといけないが、SNSやショート動画はアルゴリズムでシステムが見せたいものを見ているにすぎないため、これは一切蕩尽でも至高でもなく、ただの限定経済・保存の論理に基づいた精神、身体のメンテナンス活動であるということを強調しておきたい。

会社での数字を負うこと以外に目指すべき目標や個人のコアパーソナルプロジェクトは、教育が剥奪して代替品として組織の掲げる学校では点数や成績に挿げ替えられたことで、自分自身の本当にやりたいことが会社のやりたいこと、成長と同一化されて自分を見失い、企業の労働力として吸収されていく。

そこに個人の実存のパトスの灯火はもう消えていて、残っているのは企業の掲げた数字を冷徹なロゴスでできた自動人形として本質だ。企業の成長というエントロピーの拡大に、個人のナラティブは吸収され、身体も精神も会社によって管理させる。

副業禁止の会社が日本社会では多いが、これは一つの会社に依存させ、この会社にいないと生きていけないようにするためである。記号としてのあなたの機能は会社の人的資本として保守し管理するが、あなたの個人の実存の苦悩はノイズとして除去する、だが肝心な会社はあなたの人生には責任をとってはくれない。

あなたの人生に責任をとってくれるのは紛れもないあなた自身しかいないのである。あなたが会社にとって都合のいい労働力という記号が剥がれて、個人の実存を剥き出しにしたら、遠い支部に飛ばされるか、希望しない部署に飛ばされるか、最悪整理解雇だ。

なぜ賢い人でさえ限定経済の重力に負けて記号的生産のアビスに落ちていくのかといえば、ひとえに明日の生活を会社に人質に取られて管理されているからにすぎない。セネカであれ、自分の弟子や妻がネロの手先の人質に取られれば、自分の首を差し出すであろう、そういうことである。

こうして没人間の完成だ。没人間は賢者も愚者も平等に加工され、抗うすべもなくシステムに隷属していく。だがこの世界にはシステムと本来的創造の間に自分という経由地を置くことで汚染を防ぐ実人間と、そうしたシステムから完全にドロップアウトした第3の反乱分子としての勢力がいてその人たちは自らの実存を燃やし生きている。ではどうすればこの重力に逆らって離陸することができるのか。次の部ではそれに関して考察したいと思う。

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