#15【閲覧注意】株価チャートと預金残高でしか生を実感できない「有用性の囚人」は読むな――没人間の深淵

哲学コラム連載『存在論的コンフリクトの発散』システムと個人はどう折り合いをつけるのか〜

第3段階:最深部ー没人間

ここの階層の人間は完全に記号的生産に飲み込まれてしまっている。

増え続ける預金残高の数字に満足して、それを自己充足行動や本来的創造に還元しないと言った姿勢や、閑暇の時間でさえもシステムによって定義された数字、例えばゲームのレベルや経験値、株価の数字やチャート、ROE、PBR、PERといった指数や、日経平均、為替といったビジネス上の数字ばかりを盲目的におい続け、

自らを幸せにしたり、周りを幸せにするのを忘れて全てが生産的ー生産的の対義語は創造的であると考えるーで、社会から見たら便利な交換可能な部品で、システムの番人には歓迎されるが、そうした人間の一生はすぐに流れていき、死ぬ間際に自分が育てた預金残高の数字や地位や名誉を墓石に刻むだけ刻んで土に還り、何も残らない。

自分が人に与えたものはその人の中で残っていくが、自分の数字のために頑張ったものは例外なく土に還っていく。

目も当てられない末路を辿るこの深淵の住人を私は、没人間と呼びたい。

没人間の大きな特徴としては意味や目的の完全なる虜になって、有用性の囚人であり交換可能な人間であるということだ。

自分のやることなすことが保存の論理と結びついており、意味や目的といったプロジェクトがないと行動をしない故に今の自分の過剰な生のエネルギーを温存して未来の自分に幸福を託すということを毎日繰り返すことで、最終的には死んだ時に預金を棺桶に敷き詰めて燃やされるという末路を辿るのである。

つまりバタイユが著書の『呪われた部分』で挙げたような限定経済の奴隷である。

呪われた部分で描写された限定経済の奴隷は、太陽からの過剰なエネルギーを発散せずに未来の自分のために保存、再生産させた上で有用性の用途のみに使う人間のことを限定経済の奴隷と描写したが、ここでの没人間と限定経済の奴隷の違いは前者の方がより向社会的でシステムによって都合よくプログラムされた量産型のマシンのようで、

後者は保存のニュアンスが近いが、私の唱える没人間はボードリヤールが『消費社会の神話と構造』で提唱したような現代社会における記号的消費を踏襲し、限定経済の理論をより現代版にブラッシュアップしたものである。

よって限定経済の奴隷との明確な違いは、限定経済の奴隷は生の保存の論理であるが、記号的生産の奴隷、つまり没人間は自らの生ですらない、生に付随した身から出る錆のような付着物である数字や地位、名誉といった記号の保存の論理である。

それらはもはや所持物であって自分ではない、そんなものをひたすらこぼさないように握りしめて守っているのだ。

そして記号の虜になった人間がなぜ側から見たら空虚な生を盲目的に肯定し進み続けているのかというと、記号には麻酔作用があるからである。

例えばこんな経験がないであろうか。データのアップロードの際に残り時間やパーセンテージのような進捗状況を明示する数字やバロメーターがあると待てるが、それもなしにただの静止画である場合だと待てないといったことが。それと同じで没人間は数字が成長して生に付随する記号が増えないと生きている感覚を得られないからだ。

それは常に計量可能で交換可能、保存可能で予測可能のコンフォートゾーンの範囲でしか生きないという人生を過ごす空虚な人生を虚飾するために記号を纏っているため、数字や記号にしか生のカウンターを刻む媒体がないのである。

そうした虚無を隠す欺瞞という名のベールが、没人間にとっての記号である。

実人間は計量・交換・保存・予測が不可能な一回きりの刹那の連続を過ごすエネルゲイア的人生を過ごしているため、そこでのパトスの揺れ動きや心のゆらめきがそのまま生きる実感につながるのだ。

それに加えて没人間を構成する要素として、自分の所有するもので自分の価値を図る試金石として、自分が何者であるかという問いを宙にぶら下げたまま未解決にし、その空虚さから目を背けるためにさらに所有物を過剰に増やしていく、フロム的な所有様式の囚人である。

つまり没人間は今より未来、コトよりモノを優先し、計量可能、交換可能な概念に全実存を全権移譲して、魂を売った骸のことである。没人間とは一言で言うと記号的生産をするシステムの最高傑作のことである。

実際没人間は地球上に大勢存在しており、実人間や堕人間が突如ここに落ちる例も多くある。しかし心配しないでほしい、実人間への回帰は簡単ではないが可能である。次はどのような要因によって実人間が堕人間に、そして没人間になるのか、その物理学を語っていきたい。

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