脆弱性は主人間の生の明証性
主人間はn=1の他者に対しては丸腰である。そしてn=1の他者に徹底的に振り回されて叩きのめされ、失意のどん底に落とされる、それが自分と距離の近い他者、恋人や配偶者といった存在ほど顕著になる。そもそも恋愛関係にある両者に依存関係ではない恋愛関係などあるのだろうか、お互い持ちつ持たれつでどこかしら相手に依存してる部分があるはず。
でないと一緒にいる意味がない。自分たちはお互い独立していて、相手に振り回されることがないといっている恋愛関係はたいてい虚勢を張っているだけか、本当の意味で愛し合っていないに過ぎない。そして傷つく覚悟がなければ人間関係に足を踏み入れてはいけない。
人間関係に飛び込んで無傷で帰れる人間などいないからだ。そして傷つくことを中途半端に恐れていたら人間関係から得られるものは少なくなり、自分の不連続な檻を破る力もなくなる。人間関係で傷ついてこそ、自分が生きている証を強烈に実感できる鮮烈な証であり、それは自分の守ってきた矜持や哲学がもはや意味をなさなくなるほどの心の揺さぶりを体験することになるだろう。そうすることによって傷つかないように守ってきた自分の殻が壊れて、共同体への連帯感と肌感覚の連続性を手に入れることができる。
ここで避けられないのが身を裂かれるような人間関係における苦しみ、自分一人の凪の心に石を置かれて波紋が立ち、その波紋がさらに他の石の出現によって連鎖し、さながら雨の降った道端の水たまりのように波紋が連鎖してカオスを生む、そのカオスの奔流に身を任せることが、私の定義する人類の幸福である。
波紋の正体はn=1の贈与と相手からの揺さぶりである、波紋の連続がn=1の贈与経済圏のカオスである。そのカオスにおいては何一つ計量も交換も保存も予測もできない、脆弱性があろうともその人がいいと願い交換も許さず、軽量できない不可算の幸福は連続する選考であり保存も聞かずにお互いに変化し続ける対自としての個人が織りなすカオスに昨日と同じ今日もこない、それゆえに予測も不可能な拡大するエントロピーである。
贈与をした際に相手からの見返りを求める感情は至極当然で、私たちの文明は交換によって発展してきたからである、貨幣も物々交換から兌換紙幣に姿を変えただけで、根本的な交換という原則には変わりない。そのため見返りを求める感情を恥じなくても構わない、それに相手がそばにいてくれるだけで相手からはもう見返りを得ているという認識をする余裕が大切だ。
n=1の相手は親密な仲間であり、自分がレジをしている店員で相手が商品を要求してきてお金を出さなければ、相手はただの客であるため、異議を唱えることは社会通念として当然だが、あいてが仲間なら相手が今日も生きているという存在の驚きとありがたみを対価にすることのハードルは低いはずである。そして相手が思った反応をしてくれなくて憤る気持ちも主人間においては生の明証性であり、開かれた姿勢で受け入れることが肝要である。
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