第1章:計量される実存、隠蔽される温度
私たちは交換可能で計量可能なスケールで価値を社会によって測られる。
しかし私たちの実存は交換可能でも、数値化可能な物でも本来ないであろう。
例えば一般的な幸福像で言えば恋人との言葉にも数字にも置き換えることのできない触れ合いの温度、かわす視線、重なり合う手と手、これは社会の感知できない幸福だ。
友人との他愛もない会話、飲み交わす酒、叶うこともないかもしれない将来の野望、これも社会の感知できない幸福だ。
しかし社会の用意した幸福のようなものは地位や名誉、預金残高の数字などであろう。これが序文で述べた成長という言葉の正体だ。
これらは交換可能であり、計量可能だ。だが人間は本来人間関係の中にしか幸せを見出せない生き物であることは、アドラーの洞察やハーバードの成人発達研究でも自明のことであろう。
だが社会はそれに気づかれると都合が悪いのだ。というのも社会が用意したレールの上を走って、モルモットのように回し車に乗って発電してもらわないと困るからだ。
だからブランド物を持つことや高い役職につく幸福というのを社会はマーケティングに広告宣伝によって喧伝することでメディアから影響を与えて、人間にそれが幸せだと錯誤させることで文明の発展に貢献し、社会の増大するエントロピーの礎になってもらうのである。
こうした社会の望む生産と発展を私は記号的生産と呼ぶ。そして人間本来の幸福の醸成を本来的創造と呼ぶことにしよう。そして本来的創造に付随するのは内的充足行動である。
これはシステムの定義する数字や交換可能なスケールでは評価できない創作やアクティビティのような数字に頼らない心を豊かにさせるものをさす。
本来的創造は人間の遺伝子に刻み込まれた所属欲求や愛や友情の欲求を指すが、内的充足欲求はこうしたものを除いた人間がいなくてもできる内的な生産活動を指す。
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